世界あちこち見聞録 新・世界の7不思議

タージ・マハル(インド)



あじさいの花が日ごとの長雨に色づく季節になりました。株式会社EMAR 広報担当MADAM Hです。皆さんいかがお過ごしですか? 

今回は新・世界の7不思議シリーズで、インド北部、ウッタルプラデシュ州の都市アグラにある世界一美しい霊廟をご紹介します。

タージ・マハルとは亡き妻のためにムガール帝国の第五代皇帝シャー・ジャハーンが作った、インド・イスラム様式の総大理石の霊廟です。1632年から約20年かけて完成されました。腕利きの職人を集め、延べ2万人が携わったといわれています。 

タージマハルとは王冠宮殿または宮殿の王冠を意味しています。妻であるムムターズ・マハルの遺言には「後世に残る立派なお墓に入れてほしい」といった旨の一文があり、そんな遺言を残されなくても十分立派なお墓を作ったであろうシャー・ジャハーン、当時はもちろん現代でもなおインドを代表する壮麗な霊廟を作り上げました。

真っ白な大理石の印象が強いタージ・マハルは、すぐ近くで見るとところどころに大理石を彫って作られたレリーフや、象嵌細工と呼ばれる繊細な装飾が施されています。 象嵌細工では黒大理石を埋め込んだ芸術的な模様や、イスラム教の聖典であるコーランの一節が描かれており、その精緻な美しさは一見の価値あります。




この霊廟建設の背景を知っている人なら誰もがそう思わずにはいられないほど、タージ・マハルとシャー・ジャハーンの愛妻家ぶりには切っても切れない関係があります。実は、ヒンズー教では一般的に人が亡くなってもお墓を作ることはありません 。人の魂は永遠であり、輪廻転生を信じるヒンズー教徒にとってお墓はあまり意味を持たないのです。それでも皇帝ともなると、その権力を誇示するために大きなお墓を作ることはありました。

しかし、身分的には王妃といえども実質何の権力も持っていなかった皇帝の妻に、あそこまで大きなお墓を作るというのは歴史的に見ても他に例がありません。そういう意味でも、妻ムムターズ・マハルを失った皇帝シャー・ジャハーンの悲しみがどれほどのものだったのか、察することができます。ムムターズ・マハルが亡くなった時、まだ39歳という若さであるにも関わらず、シャー・ジャハーンの髭は真っ白になってしまっていたと言われています。

タージ・マハルは正面からの外観はもちろん、霊廟内のありとあらゆる部分が左右対称になっていることで知られていますが、霊廟内で唯一“左右非対称”になっている場所があり、それは実際の棺が安置されている場所で、タージ・マハルができた時からそこに眠るムムターズ・マハルと、その隣にはシャー・ジャハーンの棺が寄り添うように置かれているのです。棺の形は大きさなど若干の違いがあり、ここだけは左右対称ではなく唯一“左右非対称”なのです。シャー・ジャハーンは生前、自分のお墓もタージ・マハルと川を挟んだ向かい側に、対になるよう黒い大理石で建設する計画を夢見ていました。

しかし、タージ・マハルに費やした莫大な費用のため国の財産は底を尽き、最後にはムムターズとの間に生まれ6代皇帝となった実の息子アウラングゼーブによって幽閉されて、その夢は文字通り夢と散ってしまったのです。「タージ・マハル」がなぜイスラム風の建築であったかというと、建造当時の王朝でありほぼインド全域を支配していた「ムガル帝国」はトルコ系の 「征服王朝」で国教をイスラム教としていたからです。

要するに、ムガル帝国が北インドを1526年に制圧して以降、1858年にシパーヒーの乱がイギリスによって鎮圧され皇帝が退位するまでの約300年間のインドはイスラム王朝だったという事です。 3代皇帝で「大帝」とも呼ばれるアクバルの時期に勢力を伸ばしているのですが、融和政策により人頭税であるジズヤを廃止(後に復活)するなど総じて穏健な統治を行っていたといえます。

特に宗教には寛容でありヒンズー教、バラモン教、ジャイナ教などのインド在来の宗教はもちろんゾロアスター教やイエズス会なども弾圧を受ける事はありませんでした。言語も「ペルシャ語」であったのですが、ムガル帝国の「ムガル」とはペルシャ語で「モンゴル」の意味であり、歴代の皇帝が「ティムールの末裔」と称していた為です。

チンギス・ハンやティムールなどモンゴル系の支配者は宗教には寛容でしたのでムガル帝国皇帝もそうした面を受け継いでいたのかもしれません。

タージ・マハルは何が不思議なのか?と、良く質問が出ます。

英語で世界の7不思議を ”Seven wonders of the world” と言われており、wonderの翻訳の仕方で通常7不思議と言われていますが、wonder を「驚異的な」と理解する方がしっくりするかもしれません。1983年、世界遺産(文化遺産)に登録されています。