世界あちこち見聞録 新・世界の7不思議 マチュ・ピチュ(ペルー)

長―い夏も暑さが幾分落ち着き始め、空が澄み清々しい秋を感じる頃となりました

株式会社エマール広報担当MADAMHです。皆さんいかがお過ごしでしょうか?

新世界の7不思議シリーズも6回目を向かえました。

今回はペルーにあるマチュ・ピチュの遺跡についてお伝えします。


ウユニ塩湖と並ぶ南米二大絶景の一つです。

マチュピチュは南米ペルーのアンデス山脈、標高約2,450mの尾根に位置する古代インカ帝国の遺跡です。

老いた峰(OldPeak)を意味するケチュア語Machupikchuを地名化したものであると言われています。

山裾から遺跡の存在が確認できないことから、「空中都市」「インカの失われた都市」などと称されます。

世界遺産だけでなく、新・世界七不思議に選ばれたのは2007年7月の事です。

遺跡は神殿と居住区で構成され、その総面積の約半分の斜面には段々畑が広がっています。

建造物の石積みは、カミソリの刃すら隙間に通さないほど精密に組まれており、

数百年経った今でもしっかりと姿形が残存しています。

何故このような高地の断崖絶壁に、要塞都市が建築されたのか?

かつてインカ帝国がスペインの侵略から財宝を守るために建設した都市、という説や最後の砦であったという説がありますが、アンデス文明は文字を持たないため、その理由は明確になっていません。

インカの人々はこの秘密都市で80年ほど生活した後、高度な文明が栄えたマチュピチュを残してさらに奥地へと移り住んだと言われています。

その後は数百年に渡り人の目に触れることはなく、1911年7月24日アメリカの探検家ハイラム・ビンガムの発見により世界に知られるところとなりました。

30年以上前に南米3ケ国の周遊の旅へ行きましたが、日本の反対側ですから、何といっても遠かったと言うのが印象です。

ペルーだけを振り返ると、ロスやメキシコシティ経由でリマまで行き、首都リマから小さめの飛行機に乗り換えクスコへ行きました。

クスコは標高3400mの高地、数時間で多くの方が高山病になってしまいました。

11〜12世紀頃、ペルー南部に建設された、かつてのインカ帝国の都がクスコです。

太陽神の子とされる皇帝が治めるインカ帝国は、15世紀後半から16世紀初頭に最盛期を迎え、インカ道で各地と結ばれたクスコ(ケチュア語で「ヘソ」の意味)は、まさに世界の中心として隆盛を極めました。

太陽神を祭る神殿は、その象徴である黄金で飾られていたそうです。

ところが1533年、スペイン人のピサロによって最後の皇帝が処刑されると、インカ帝国は滅亡してしまいました。

おびただしい金銀財宝が略奪され、破壊された神殿や宮殿の跡に教会やスペイン風の町が築かれていきました。

中心のアルマス広場に面したカテドラルは、インカのビラコチャ神殿跡に100年を費やして完成し祭壇には約300トンもの銀が使われています。

インカ時代の堅固な礎石の上に建つサント・ドミンゴ教会は、インカの最も聖なるコリカンチャ(太陽の神殿)があった場所です。

すき間なく積み上げられた石組みの技術は精巧で、アトゥンルミヨク通りのパズルのように組み合わされた「12角の石」は驚異的です。


クスコから列車に乗り3時間半かかり、マチュピチュへ行きました。

クスコの標高が高いので、列車が下って行く事になります。

ある地点まで来た時に、ふわ~~と身体が軽くなり耳の空気が抜けたのを感じ、この時の感覚は忘れる事が出来ません。

列車から降り、バスに乗り換えつづら折りの道を登って行きます。

バスから降りて、徒歩で遺跡の見学をしました。

ずーっと子供が先回りして後をついて来て、日本安いよ!安全部で1,000円」と繰り返す。

お土産売りの子供達…一体何ケ国話すのだろうか?

逞しい!生きていくのは大変である!

学校へ行く事が当たり前の日本では、理解できない事ですね。




この都市は通常の都市ではなく、インカの王族や貴族のための避暑地として冬の都(離宮)や、田舎の別荘といった種類のものでした。

遺跡には大きな宮殿や寺院が王宮の周囲にあり、そこでの生活を支える職員の住居もありました。

マチュ・ピチュには最大でも一時に約750名の住民しかいなかったと推定され、雨季や王族が不在の時の住民は、ほんの一握りであったと推定されています。

急斜面に位置したマチュピチュの頂上には、太陽の神殿があり、頂上にはインティワタナ(Intihuatana、太陽をつなぎ止める石)が設置され、夏至と冬至が正確に分かる窓があるなど、太陽を使った暦を観測、作成したと言われています。

インカの神は日本やエジプトと同じく太陽神であるため、太陽により近い山の頂は儀礼場として適当だった。

神殿の畑など耕作地で栽培された農作物は神への供物として栽培されていたか、神が人間に下賜されたものとして人々に食べられたか、いずれにしても宗教儀礼的意味が色濃く反映されています。

そのようないきさつから、現在、マチュピチュは宗教都市として捉えられており、なおインカの人々にとっての神は、太陽とともに月も挙げられ、多くの遺跡には太陽神殿と月の神殿が対で祭られています。マチュ・ピチュの太陽神殿に対しては

ワイナ・ピチュ(「若い峰」という意味で、マチュ・ピチュの背後にある尖った山)の裏手に、月の神殿が洞窟に作られています。

マチュピチュ遺跡内にはインカのシンボルでもあるコンドルの神殿がありワイナ・ピチュ側からマチュピチュ遺跡を見下ろすとコンドルの形に見えるのです。

有名なあの曲“コンドルが飛んで行く”が聞こえてくるようです。